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『台風の午後に④』 映画の中で対比的に扱われるのが、村と都会です。もちろん小作人として搾取されているのですけど、明るい太陽が降り注いでいる村の映像というのは美しいのです。脱穀作業で籾殻が巻き上がる中で、村人全員が作業をする。疲れれば、みん…

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『台風の午後に④』

映画の中で対比的に扱われるのが、村と都会です。もちろん小作人として搾取されているのですけど、明るい太陽が降り注いでいる村の映像というのは美しいのです。脱穀作業で籾殻が巻き上がる中で、村人全員が作業をする。疲れれば、みんなで談笑しながら休む。それに対して、都会に移り住んだ村人たちは、冬の曇り空の中にいる。ずっと顰めっ面をしている。

村では常に「物」が不足していて、電球にしてもシェアしなければいけない。だけど「贈与」で成り立っている村の中というのは、ある種の理想郷のように描かれています。まぁ、もちろん賃金も貰えないで搾取されているのですから、偽りの理想郷なのですけどね。

都会に出てからの彼らは、そもそも「交換」するものを持っていませんから、犯罪に手を染めることになってしまっています。野草が食べられることをラザロから教わって、懸命に出荷できる商品に変えようとしている少年の姿が、私は好きでした。自分のしてきたことが良くないことだと、彼には分かっているのです。

寓意を持って対比される2つの世界において、そのどちらでもラザロは変わらないのです。常に与えようとする。相手の幸福を願っているとか、高尚な理由がある訳でもなく、それしか彼にはないのです。

「交換」というルールで成り立っている資本主義社会。結局のところ、その社会にラザロの居場所はないのでしょうね。

銀行という、まるで資本主義の象徴であるかのような場所で(映画の中の銀行は無機質で、冷たい光沢を放つ場所として撮影されています)ラザロが亡くなってしまうのは、そうならざるを得なかった物語の「終わり」なのかもしれません。


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